「主体的・対話的で深い学び」が今の教育界のキーワードである。
これは子供のどんな学びの姿を表しているのだろうか。
前回に続き、上智大学・奈須正裕先生の発言内容をシェアしたい。
今回は「対話的な学び」について。
(引用元は、『国語授業における「深い学び」を考える -授業者からの提案- 全国国語授業研究会 筑波大学附属小学校国語研究部編著(東洋館2017年8月初版)』)
対話的な学びとは?
日本の授業はもともと対話的なのだが、活動や形態としての対話ということ以上に、知識観が変わってきたという話。
従来の知識観は、教科書や教師の中にある知識を子供が学び取るという話だったが、今後はさらに子供達がそれぞれに持っているものを出し合うことによって、よりよい知識をその場で作り続けていく、大げさに言えば教師もそこに新たな発見をするとか、問い直しをしながら、教師も含めてみんなで知識をよりよいものにしていくという話。だから終わりがない。
例えば(国語で)この作品はこんな風に解釈するというのを教師はもちろん持っているし持っているべき。でも子供がそれを乗り越えることもあって、そういうことを当たり前として授業をするということ。
すでに誰かが追求して生成した知識を、子供達がユーザーとしてあるいは消費者として受け取るだけではなくて、人類が知識をよりよいものにしていこうという営みがずっと何千年も何万年もやられていて、それで学問ができて、科学ができて、社会ができているわけで、そこに参画していくという感覚。
知識自体がどんどん再構成されていくことが当たり前になってきているので、だったらもともとそこから出発してしまった方がよいのではないかという発想。そこにどうやって教師の意図性や指導性、カリキュラムの系統性や組織性ということを担保しながらやるのかということ。
(太字は、私が施したもの)
以上の奈須先生の説明から分かるように、ただ単に子供が活発に話し合ったり、意見交換したりしていれば「対話的」であるというわけではない。(もうそのように捉えている教師は、いないだろうが・・・。)
国語であれば、つけたい力が教師に明確にあって、そこに到達するために教師も含めて対話をするのだが、時に教師の想定を超える読みや解釈も子供から出るわけで、それを意味づけ、そのクラスならではの学びとして刻んでいくということだ。
國學院大學の田村学先生は、多様な他者との対話には次の3つの価値があるとしている。
1つは、子供は身に付けた知識や技能を使って相手に説明することで、つながりのある構造化された知識や情報へと変容させていくという価値。
2つは、多様な情報が他者から収集されることで、その構造化が質的に高まるという価値。
3つは、他者と共に新たな知を創造する場を生み出すとともに、課題解決に向けた行動も生み出すという価値。
このような学びを実現するために、教師はますますファシリテーターとしての役割を求められることになるだろう。
今回は「対話的な学び」について紹介した。次回は「深い学び」について紹介したい。
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誰もが自分の個性や才能を生かして、望む人生を自由に生きられる社会の実現を目指しています。今まで教育に携わりながらコーチング、心理学、カウンセリング、占星学、学習法など、個人の成長や能力開発に関わることを学んできました。このブログで発信する情報が、自己理解や他者理解を深めるきっかけの1つになれば幸いです。
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