先日の「夢の国語授業づくり研究会」に続いて今日も茗荷谷の筑波大学附属小学校へ行ってきた。第20回全国国語授業研究大会の参加のためだ。
大会テーマは、「深い学び」をうむ国語授業。
初日の今日は2本の公開授業があった。
1本目は、2年生の物語「私はネコが嫌いだ」
2本目は、 4年生の説明文「ウナギのなぞを追って」
1本目の授業は、もともと絵本(よこただいすけ作)だったものを、授業者の先生がテキスト化(絵を抜いて文章だけにした)し、教材化したもので面白かった。
ただ、授業者の先生の主張で気になる点があった。
授業者の先生は繰り返し次のようなことを主張されていた。
「子供の日常の読み(自然体の読み)と、学校の授業での読みとが分離している。これを分離させたくない」
「そもそも子供は日常の読書で、発問によって読んで行くのか? だから敢えて発問しなかった」
「子供も大人も遊びの中にこそ学びがある。だから授業は遊びであってほしい」
以上の主張はもしかすると、新学習指導要領の目標に繰り返し出てくる 「日常生活」というワードを強く意識されているからなのだろうか?
この「日常生活」というワードについては、上智大学の奈須正裕先生が次のような指摘をされている。(先生の著作より引用)
「生活との関わりそれ自体は重要な視点ではあるが、日常生活という言葉は気をつけないといけない。」
「日常生活という言葉は諸刃の剣で、教科というのは非日常的だから意味がある。 日常の中にある 事物現象を非日常的な見方で見るから面白い。」「日常生活に生きるからといって、そこを日常に引きずりおろしてはいけない。むしろ教科を学習することによって、日常のものに対して、その奥にそんな奥深い世界とか、素敵な世界とか、格調ある世界があることを知って、その方向に日常生活をむしろ変化させていくとか、洗練させていくとか、自分なりに作り上げていくとか、そういう意味で日常生活をとらえていかないと教科がグズグズになってしまう。」
「日常生活は子どもの学びや思考を枠付けているわけだが、同時に、学校で学んだことを足場に、子供は自分の日常生活を国語であれば言語的により洗練されたものに、あるいは自分らしい表現へと変えていくという可能性もある。そういうところに子供が向かうような目を作りたい。」
奈須先生の指摘を私なりに解釈すると、国語の授業での読みというものは、子供たちだけでは到達し得ない部分を扱ってこそ価値があると思うのだがどうだろうか? もちろん、授業で扱ったことが日常の読みに生かされなければ意味はないが。
2本目の公開授業は、筑波大学附属小学校の桂聖先生の授業。
国語授業UD(ユニバーサルデザイン)をベースにしたファシリテーションはさすがとしか言いようがない。
ただ、4年生で扱う「要約」について、今日の「興味をもったところを中心に要約する」というのが自分の中では消化できなかった。
要約には客観的な要約と、主観的な要約があるという。
今日の授業は後者のはずだが、書き手の主観による要約であっても、一定の型・フレームがあるということか。(本教材のような調査報告文では最初に結論・まとめを述べることは型のようなもので、そのあとの部分は書き手が興味をもった事例をピックアップすればよいということか?)
このあたりは自分も不勉強なのでよく分からなかった。
明日も2本の公開授業があるので楽しみだけど、台風は大丈夫かな?
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誰もが自分の個性や才能を生かして、望む人生を自由に生きられる社会の実現を目指しています。今まで教育に携わりながらコーチング、心理学、カウンセリング、占星学、学習法など、個人の成長や能力開発に関わることを学んできました。このブログで発信する情報が、自己理解や他者理解を深めるきっかけの1つになれば幸いです。
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